カーテンウォールが認定じゃないから?!

タイトルの通り、たまには建築のことも本業なんだから書かないとねえ(笑)。
昨日現場で施工図担当者と雑談したときの話し。「最近防火設備相当の部分に編み入りのACW使っていると軒並み差し戻しとなっているそうですよ」「何でえ?」「認定品じゃないとだめだって」「バカですか?!」いったい今回の法改正はなにが目的だったのかと目を疑いたくなる話です。
そのきっかけは、もちろんのこと姉歯事件を発端とした耐震偽装問題でした。そしてそこに根深く存在していた日本的性善説の弱点が議論の的となりました。結果法改正が行われ、設計責任が厳しく問われるメソッドの確立が検討され、現在に至っております。
しかし、ちょっと考えてみてください。ここで議論の中心となるべきなのは
・法規を遵守するメソッドの確立
であるべきで、
・現行建物の性能に不備が認められるため、法的にそれらに対処する
などと言うたぐいの問題が、そもそも議論または修正される状態にあったのか?という問題です。
日本の建築基準法その他関連法規によって規定されている各種性能に今回の事件は問題をはらんでいたのでしょうか?その患部が明確に存在し、そこへメスを入れなければならないという課題がそもそも存在していたのでしょうか。

いや、百歩譲って、仮にそうした「メソッド確立のための」延長線上に何らかの必要性を認めたとしても、その為に「現行法規の規定でなんら問題視されていない部分が結果改悪される(とあえていいましょう)」という現実を引き起こすことになんの意味があるのでしょうか。

おそらくみなさんには、詳細は別としても今回の疑問の一端から私が論じてみたいと考えている問題が何となく理解いただけるのではないかと期待しておりますが、我々の生活を不正から守るため(ここでいう我々とは建築関連の業界人ではなく、一社会人であり、一国民のことです)に必要なことは、いったい何なのかということの議論が「一部の人間の怠慢によって歪曲されて利用されているのではないか」というおきまりの不満と疑念です。

昨今建築基準法は各種の文化的な用件と社会の成熟、また技術の進歩から様々な表現の自由と性能の確保という難題に、知的努力を尽くす形でよりよい合理的な手法と解決をもたらすべく頑張ってきていると思っています。もちろん建築というものが余りに社会的な影響が大きいため、結果として最大公約数的な回答を体現するに留まっているという事実を認めないわけにはいきませんが、それでもその歴史は緩やかながら進歩していると考えて大凡問題ないと思います。
しかし今回の問題はそうした知的生産や、成熟した合理性とは相対する、怠慢、打算、旧式な統制といった範疇に留まる、本来の目的からは実は大きく道をそれてしまった、大誤算だったのではないか、そんな気がしてなりません。

国民が本当に求めている建築物、様々な目的や価値観の中で市場や社会のニーズ、そして使命にあったものを「創造すべく」努力していた各人の功績が、こうした目的を見失った「寄り道」により足踏みさせられる現実に、一設計者として非常に残念かつ落胆の気持ちを隠すことが出来ず、このエントリとなりました。

こうした、建築の持つ社会性についてはまだまだ議論の余地がある部分だと思いますので、ライフワークとして(一級建築士なんだから当たり前ですが)考えていきたいと思います。

from Treo750v