モバイルってあんまり言わなくてもいいよな

あくまで当社比のお話ですが、そんな気がしてます。
以前、自分的にはモバイルって言うのはあらゆるところに手のひらで使えるコンピューティングパワーを持ち歩いて様々な用途に利用する、という感覚でした。あらゆるところとは概ね屋外であり、出先であり旅先です。電車の中であり飛行機の中であり、船の中であり。そう、家の外、という概念でした。なぜ家の外なのか。家にはしっかりとしたPCがあったからです。家ではコンピューティングパワーはPCが提供するものだったからです。それがいつしかノートブックコンピューターに代わり、ノートパソコンを持ち出して外で使うようになり、モバイルはモバイルコンピューティングであることと対を成すような概念に育ってきました。もうちょっとして、コンピューティングパワーがもう少し可搬型になり、モバイルとはもう少し小型のデバイスがもたらす概念になってきたように感じます。
その後ユビキタスという言葉とともにネットワークが台頭し、携帯電話の普及によりワイヤレスネットワークがインフラとして常態化し、今の環境があるように思います。
非常に成熟したモバイルコンピューティング環境が整いつつあり、いつしかコンピューティングパワーを利用することとコンピューターを使うことは同義ではなくなり、ネットワークインフラの充実と相まって、それは非常に多様化したIT体験を提供するものという、なんというかミクロからマクロへの概念の転換が行われてきているような、狭義から広義への価値の拡大転換が行われているような気がします。
そんなとき、まあ、自分的にはずーっと、それこそ十数年、携帯電話が出る前からモバイルコンピューティングが好きでなんやかやと工夫しながら利用してきた経験からすると、そうした延長線上に想定されるモバイルという言葉の概念が、劇的に変化してきている気がします。そう、ご想像の通りiPhoneの登場・台頭により。
そんな中、自分のコンピューティングパワーの利用形態も劇的に変わってきたように思います。実用的な速度で実用的に動くアプリケーションプラットフォームが手のひらに収まり、それは高速でワイドバンドなネットワークインフラにあらゆる手段で接続され、既にコンテンツやソフトはクラウドの中に飲み込まれ、さらには視覚さえも拡張されようとしている。
結果我々は常時ネットワークに接続されている状況にあるようになり、概ねその知覚も記憶領域もだんだんとネットワークへと接続されつつあるという、なんだかどっかのアニメみたいな状況が現実化しつつあるわけです。
そんな中、モバイルってなんだ?てなことにふと思い当たったりするわけです。そもそも、「持ち出す」ということ、具体的な「場所」というもの、固定された場へのアンチテーゼ、挑戦であったモバイルが、自由の象徴のように考えられ、スローガンとなっていたモバイルという言葉が、いつしか生活インフラとなり、技術も知識も経験も必要としない、子どもから老人まで当たり前のように使う、単なる道具となり、それは夢でも希望でもなく、箸や茶碗のように自分の身の回りに、ありふれたものとなった訳です。
まあ、なんちゅーか、ややノスタルジックでもありロマンチックでもあるのですが、今や子ども達が至るところで携帯電話を使っている光景に、かつての自分の情熱とあこがれはかき消されてしまい、一つの技術、一つのソフトの登場に一喜一憂していた当時のエネルギーは、既になにかちっぽけなかけらとなって自分のまわりに散乱しているような、タンスの中でかびているようなそんな思いであり、あれだけ絶対的な不動の思い入れだった「モバイル」という言葉は、あくまで当社比で、単なるイミダスの単語の一つとなったように思えるのです。
なんつーか、モバイルなんてかっちょよくもなんともないじゃん。今のモバイルはそんなもんじゃないじゃん、みたいな(笑)。
既に固定された場に対する挑戦なんて存在しないわけで、コンピューティングパワーは十分に解放され、それはもうワイヤードがワイヤレスかだけが差でしかないじゃん、なんて。
それどころか、ワイヤレスでどこでもネットワークを通じたコンピューティングパワーが手に入る時代に、モバイルとかいっちゃってんの時代遅れじゃん、おかしいじゃん、みたいな気持ちになったりしたりして。
なんで、モバイルってな言葉を使わなくてもいいじゃん、モバイルとかいうからややこしいんじゃん、なんか新しいイメージの言葉を使うべき時期じゃね?みたいな。そんな偏屈なこと言わなくても既にモバイルとかいっちゃうのがもう時代的にまずいんじゃね?とか感じたりしているわけです。ユビキタスもそうかなあ。
多様化した利用形態を支える、自由なハードウエアプラットフォームは既に何らかの形で十分生活に浸透していると思うし、それが可搬型だろうと移動型だろうとモビリティなコンピューティングパワーは既にあらゆるところでユビキタスな状態にあるわけだから、つか、私が考えているようなモバイルなんてのが既にどうでもいい過去形なんだから、私が考えているようなイメージを想起させるモバイルなんてー単語はあんまり今の時代やらこれからちょっと先の時代にはそぐわないんぢゃないかな?と感じて、やっぱりモバイルとかあんまり言わなくてもいいじゃん、てかモバイルはもうモバイルでいい思い出でもあるしそれはそれでもう過去の標本箱に追いやって、新しい、もっとかっちょいい言葉を使おうよ探そうよ、みたいなことを、部屋をウロウロしながらどこでも左手にiPhoneを持っている己のライフスタイルに気がついてちょっと思い返してみたりしたわけです。

時代は本当にあっという間に進んでいる訳ですね。なんかカッコイイ、その言葉を使うことが憧れちゃう、かっこよさに浸れちゃうようなもの、無いかなあ。いや、言葉ごときにそんな思い入れを持つこと自体が、既にショウワザウルスか(笑
てか、モバイルってそんなかっちょいいもんぢゃなかったかな?w