手放せないのは、モバイルの定義が変わったようなもので

昨日のエントリーにも書きましたけど、やっぱりiPhoneは凄い、と感じることしきりです。もちろんWMを使っていたときも同じことはありましたが、やはりそもそもの使い心地や諸々が違うために、「使いたい」とか「使う気になる」とか「使わないと落ち着かない」とか「使わざるを得ない」など、四六時中手にしてないとならない理由が醸成されてきているように感じます。
昨日、秋葉原でメーカーの説明会を聞いてきたのですが、わからない言葉や、主題となっているキーワードなどが出てくると、事前の予習的にその場でググることが出来てしまいます。これ、素直に凄いことなだな、と。今まではそんなことなくて、それを聞きに来たんでしょ?ってことで、説明会や講演会に臨むのですが、iPhoneを手にしてからは、かなりそうした「情報」や「知識」に対してのスタンスが変化してきたような気がします。何事にも「受け身」になるのではなく絶えず「攻め」の姿勢、というか、積極的に関わろうという考えが定着してきたというか、当たり前になってきたというか、そんな印象です。
そりゃそうですよね。ネットの広大なデータがほんとうに手のひらに収まってしまい、もう、これ以上お気楽なネットへの接続手段などないのではないか、と思えるほど何のハードルもなくネットと接続(物理的なものだけではなく、精神的なものまで、笑)出来てしまうわけですから、実社会の出来事や未来も、ネットとの密接な関係で様相をがらりと変えるところまで来ていると感じてます。てか、実際に変わってきてますよね。
我々の民主性の武器であるとか、ネットの自由だとか、言論・政治・社会性・その他あらゆるものへの反旗だとか、色んな思想や喧伝が渦巻いてきたのですが、ここに来て、iPhoneのもたらした「改革」は、一段どころか数段のレベルで、我々自身に「意識改革」を迫って、また促して、そして強要しているように感じます。
それは、躍動するエネルギーに、ほんとうになっているようですね。
そうした見えないエネルギーは、少しずつですが、確実に何かを変えるようになってきていると思います。